第97回箱根駅伝 襷物語
第97回東京箱根間往復大学駅伝競走。
1月2日午前8時前、往路のスタート地点である東京・大手町は、例年とは違う静けさに包まれていた。
青山学院大の連覇か、東海大・駒澤大が阻止するのか――。
マスコミ各社が強豪校の行方を見つめる中、私たち駅伝取材チームは虎視眈々と、創価大学駅伝部の躍進を信じて、当日のエントリー変更を確認した。

「1区から出し惜しみせず、強い選手から並べます」と、就任2年目の榎木和貴監督が自信を持って送り出した往路の5人は、予想通りの最強の布陣だった。
箱根直前の12月末に行われたタイムトライアル。「箱根駅伝0区」とも呼ばれ、箱根に出走しない登録外メンバーが走るこの記録会で、創大の選手たちは自己新を連発した。
4年の右田綺羅は、1万メートルで28分48秒の自己ベストを。「一流ランナーの証し」とされる28分台をたたき出した右田の力走は、「今、走れば、必ず最高の走りができる!」と確実にチームを勢いづかせた。

1区を任されたのは、創大のエース福田悠一。鳥取県の進学校の出身で、高校時代はインターハイの出場経験もない。
「育成の創価」の象徴ともいえる福田は昨年、5000メートルで13分43秒、1万メートルでも28分19秒と共に創大の日本人歴代最高記録を樹立した。
その速さに、チームメートの4年・鈴木大海が「もう福田は人間の域を超えてしまったんじゃないかと思います」とつぶやいたほどだ。
しかし、そんな福田の持ちタイムでさえ、エースが集まる箱根の1区では注目されるほどではない。

テレビの実況が注目選手の動向を伝えるレース中、私たちは、冷静に勝負どころを見定めるクレバーな福田の走りを安心して見つめていた。
福田には、心に刻む榎木監督の言葉があった。
「レースは名前やタイムが走るわけじゃない。人が走るんだから、何が起こるか分からない。名前に臆せず、自信を持って走っていこう」
箱根で競技を引退する福田にとっては、ラストラン。「最後の1秒まで絞り切りました」と福田は鶴見の中継所へ、トップと15秒差3位で駆け込んだ。

2区のフィリップ・ムルワ(2年)は、レース前夜、どうしても魚が食べたくなった。サポートメンバーが探し回った魚は格別の味。当日は絶好調で初の大舞台を迎えた。
「ケニアから来た陽気な留学生」は、すぐにチームに打ち解け、日本語もめきめき上達。最近の口癖は「寒い」。直前に届いた創大の学友からのメッセージに「元気をもらった」と。
1万メートルのベストは27分50秒。昨年のインカレでも1万メートルで2位となったスピードで、2位集団を引っ張った。
区間新の走りを見せた東京国際大の留学生にも、ただ一人食らいついたフィリップ。
「ケニアの家族に結果を報告できるのがうれしい」と、2位で3区へ繫ぐ。

昨年は6区を走り、区間16位に沈んだ葛西潤(2年)。リベンジを誓って、昨年2月には単身、ケニアで合宿。コーチからの指示も現地語という厳しい環境下で、心身共にたくましくなった。
昨秋、取材に訪れた私たちの目にも、葛西の体が一回りも二回りも大きくなっているのが分かった。ポイント練習でも、フィリップに併走する葛西。「ようやく、留学生に付いていける選手が出てきました」と、榎木監督も目を細めた。
海からの強い風に各選手が苦しんだ今年の3区。葛西は鍛え上げた強い脚で、一度は引き離された東海大との差を34秒まで縮めた。

前回の箱根で「逆転の創価」の代名詞となった嶋津雄大(3年)。
昨年は「初心に戻って素直に競技に向き合えた一年間だった」。何よりも、チームメートや周囲の支えを強く感じるようになった。
前回、網膜色素変性症という目の病と闘うランナーとして注目され、同じ病の人からも手紙をもらった。
「いろんな困難を抱えた人たちが自分の走りを見てくれている。みんなの思いを背負って、今回は走らせていただきました」
序盤で一気に首位に立つと、終盤、何度も左太ももをたたきながら、「“激坂王の三上”にふさわしい順位で繫ぐことができました」。

5区の三上雄太(3年)は昨年、レース直前でメンバーから外れた。「本当に悔しかった。あの時、来年は絶対に出てやるって固く決心しました」
榎木監督は常々、選手に訴えている。「競技は誰かのためにするんじゃない。自分のためだ。自分が箱根を走る、この区間を走りたいと強い気持ちを持ってほしい」
上りが得意な三上は5区にこだわり、強い脚を鍛え上げた。昨年一年間で、5000メートルで約1分、1万メートルでも約2分もタイムを縮め、昨秋には、“仮想箱根5区”の大会「激坂最速王決定戦2020」で優勝。
絶対的な自信を持って、「山の王になる」と断言し、挑んだ箱根の山。三上は、2位東洋大を2分14秒も引き離す独走で、創大初の往路優勝のテープを切った。

「ダークホースの往路優勝」と沸き立つマスコミを尻目に、走り終えた選手たちは想像以上にクールだった。
「びっくりはしてますけど、世間一般が言うほどの驚きはないかな」(葛西)
「監督からは『みんなが最低限の走りをすれば、3位は獲れる。最大限の力を出せば1位も狙える』と言われていました」(嶋津)
そして、往路を終えた榎木監督は、「しめじ監督やったね」との漫才コンビ・ナイツの塙さんのコメントに、「明日も精いっぱい頑張ります! 『しめじ』から『松茸』に成長できるよう選手をサポートします」と渾身のボケを返していた。
(※本紙新年号の企画で、榎木監督はナイツと昨年末に対談。あいさつの際に「はじめまして。“しめじ”です」と名刺を手渡した)

3日、復路スタートの芦ノ湖――テレビの映像に、私たち取材チームは胸が熱くなった。
カメラは、6区を走る濱野将基(2年)と彼をサポートする主将の鈴木渓太(4年)をとらえていた。2人は共に6区での出場を目指し、この1年、厳しい練習に耐えてきた。
主将としてチームを引っ張り、箱根を走ることができなかった渓太。
スタート直前、緊張した表情の濱野の肩に、渓太が優しい笑顔で手を置いた。「濱野、俺の分も楽しんでこい!」

濱野は軽快に山を下った。箱根湯本駅からの残り3キロは想定以上にきつかった。監督車から檄が飛ぶ。「濱野、ニジュー、ニジュー、行け!」
実は濱野は、アイドル「NiziU」の大ファン。ヒット曲「Make you happy」を脳内再生しながら走っていた。
レース前、榎木監督にも「『NiziUのリズムで』と声を掛けてほしい」と頼んでいたという。
「榎木さんの“ニジュー”の発音がかなりなまっていて、走りながら内心笑ってました」
濱野は、渓太の分まで箱根を楽しみ、笑顔で7区へ襷を繫ぐ。

7区の原富慶季(4年)は、箱根を1位で走る喜びをかみ締めていた。
原富たち4年が入学してからの2年間、創大は予選会すら通過できず苦しんだ。それが昨年のシード獲得から今年の往路優勝へ。
同期の9区・石津佳晃(4年)とは苦い経験を幾度も味わい、苦楽を共にしてきた。2人はレース前、誓い合った。「復路の創価を支えるのは自分たちだ。4年間の集大成として頑張ろう!」
2位の駒澤大を再び突き放す、区間2位の力走にも、原富は「2秒差で区間賞を逃した悔しさは残る」と。
後輩たちに対しても「準優勝でよかった。今回、優勝してたら、調子に乗っていたかも(笑い)。悔しさをかみ締めながら成長し、来年、リベンジしてほしい」。
原富自身がこの4年間、苦しみ成長して強くなった。

8区の永井大育(3年)も網膜色素変性症と闘うランナーだ。同じ病気の嶋津とは暗い早朝や夜の練習で肩を並べて走る心の友であり、ライバルでもある。
「嶋津がいるから自分も言い訳できない」と、昨年はシード獲得に沸くチームの中で、走れなかった悔しさを人一倍かみ締めていた永井。
この一年、誰よりも食べ、走った。レース前夜は大ライス2杯を平らげ、8区で最も苦しい遊行寺の坂では、榎木監督から「ご飯2杯分、出し切ろう!」と檄が飛んだ。
「持ち前の“気持ちの強さ”で耐え抜くことができました」と、首位を守り、9区へ。
それでも、永井は「自分には、まだまだ区間上位で走る強さがなかった。この悔しさを来年ぶつけたい」。

昨年も9区を走った石津佳晃(4年)。
前回は前を追うだけで、満足の走りができなかった石津はリベンジを誓っていた。
「自分で課題を見つめ、自分でメニューを考えて、一年間、箱根に懸けてきました」
後半の弱さを解消するため、ハーフマラソンなど長い距離を強化し、駅伝と同じ単独走でスタミナを鍛え上げた。
「自分の走れなかった時の原因として、血液の状態が悪かった」と管理栄養士による食事のサポートと共に、サプリメントも積極的に取り入れた。

テレビの解説は「前半、ちょっと飛ばしすぎじゃないかな」と心配したが、それも石津の作戦だった。
「とにかく前半は出し惜しみせず突っ込んで、後半は強化してきた粘りで耐える」
石津は出走当日、チームの縦割り班の班長として一年間関わってきた班員全員に手紙を書いて送った。
後輩たちは、区間新に迫る競技人生最後の石津の走りを、まぶたに焼き付けた。
この日の石津は、“箱根イケメンランク入り”した原富にも負けず劣らず、かっこよかった。

10区・小野寺勇樹は5キロすぎ、体の異変を感じた。
“汗が出ない……”。その後は監督車からの声も、給水も記憶はおぼろげ。“1位のままで”――無意識で走り続けた。
はっと気が付くと、駒澤大の選手に追い越されていた。懸命に背中を追った。

小野寺のゴールを、主将の鈴木渓太は祈るような思いで待っていた。
ゴールテープを切った小野寺を渓太が抱きかかえる。
嗚咽で言葉にならない小野寺に、いつもの“渓太スマイル”で語った。
「小野寺、ありがとう。最後まで諦めず走ってくれて。俺たちは目標を達成したんだ」
レース後、小野寺は語った。
「ふがいない走りの自分にみんな温かく、ありがとうって言ってくれて。このチームで本当によかった。来年、リベンジしたい」

「“総合3位のチーム”の主将だとの思いで、この一年やってきました」――昨年11月の取材で、渓太は胸を張って話した。
コロナ禍での難しいチーム運営。緊急事態宣言下、選手は寮と帰省組に分かれた。榎木監督は選手の自主性を重んじ、残るか帰るかも一人一人に判断させた。
渓太は主将として寮に残り、貪欲に“自身の走り”に向き合った。皆がきついと口をそろえる早朝12キロの集団走も先頭を走って、背中でチームを引っ張った。
その熱意は帰省組にも伝わる。自粛明け、寮に戻った下級生は「(渓太さんが)たくましくなったと強く感じました」と。
昨年、当日変更で6区を走れなかった渓太。「競技人生最後の箱根で6区を走る」ことにこだわり、苦しい練習にも耐えた。
しかし、渓太は今年も外れた。

発表直後のミーティングで渓太は主将として皆に語った。
「正直、自分の気持ちに整理がつくか不安はある。けど、チームとして結果を残したいと、この一年やってきた。最後はサポートに徹して、チームみんなで、もう一花咲かせましょう!」
――復路ゴール直後のオンライン取材。渓太は最後まで誠実に応じてくれた。
「箱根準優勝のキャプテンにさせてもらって、心の底からみんなに感謝してます」「競技者として悔しさは残りますが、創大で学んだことを人生で生かしていきます」

今回、箱根を走ったメンバーは10人。それ以外の多くの部員は、最後の最後まで選手のサポートに徹した。総合準優勝を皆で喜びながらも、それぞれが悔しさをかみ締めている。
「競技力=人間力である」と榎木監督は訴える。
競技の悔しさが人間を鍛える。
来年も創価大学駅伝部は必ず強くなって、箱根路に戻ってくる。
(取材後記)
駅伝部は箱根後、三上主将、永井副主将の新体制がスタートした。
榎木監督は「焦ることなく、高望みすることなく、地に足を着けた取り組みを継続し、まずは出雲駅伝、全日本駅伝に出場し、上位で戦える自信をつけたいと思います」と今後の意気込みを語ってくれた。

