最後まで走り抜いた人が勝つ――ガーナ”建国の父”の信念貫く闘争に学ぶ

連載〈勇気の源泉――創立者が語った指針〉

創価大学 1993年7月 第22回滝山祭

 1993年7月、「大いなる理想への挑戦」とのテーマで創価大学の第22回「滝山祭」が行われた。記念の式典には、ガーナ共和国のアミサ駐日大使(当時)が来賓として出席。同国は、アフリカのサハラ以南地域で最初に、民衆の力によって独立を勝ち取り、アフリカ諸国独立への道を開いたといわれる国である。

 スピーチに立った創立者・池田先生は、「大いなる理想への挑戦」を貫いた先人の一人として、ガーナの“建国の父”エンクルマ初代大統領の人生を紹介した。
  
 1935年、ファシズムの嵐が猛威を振るおうとしていた。
 若きエンクルマ青年は、留学の途中、立ち寄ったロンドンで、1枚の張り紙を目にした。
 「ムッソリーニ、エチオピアへ侵入」
(K・エンクルマ『わが祖国への自伝』野間寛二郎訳、理論社)と。イタリアの独裁者がアフリカへ――。たった1枚のビラであった。彼は驚いた。怒った。燃えた。そして決意した。
 「植民地制度をたおすために私の働ける日のくることを祈った。その目的を達成するために、必要なら地獄へでも行こうと私は決心した」
(同)
 “地獄へ行こうが、どこへ行こうが、わが信念のためには、それも構わない”と。
  
 環境ではない。一念が、誓いが、本当に定まっていれば、「地獄」即「寂光土」なのである。
 それから10年間、彼はアメリカで真剣に学んだ。経済的には大変であった。食堂でアルバイトをしたり、靴磨きや船のボーイをするなど、働きながら勉強した。

ガーナ共和国の“建国の父”クワメ・エンクルマ初代大統領。独立運動を指導し、1951年に獄中から総選挙に立候補して、当選を果たした。57年、同国独立時に初代首相。60年、初代大統領に就任した ©Universal History Archive / Getty Images

大いなる理想への挑戦

 先生は大統領の青年時代の生き方を通し、学生たちに呼び掛ける。
  
 労苦こそ大成への礎である。
 大統領の若き日も、労苦の連続であった。しかし、後に彼は“この時代こそ人生のもっとも楽しい日々であった”と振り返っている。私も同じ気持ちである。
 彼は、理不尽な人種差別を、幾度となく経験した。彼はその悔しさを一つ一つ、心の鉄板に刻みながら、“必ずや、差別の深い霧を晴らしてみせる。平等の光の中へ民衆を必ず導いてみせる”という理想を深めていった。
 絶対に忘れるものか! 勝ってみせるぞ! わが友、わが国民のために!――と。
 「大いなる理想への挑戦」――口にするだけなら、だれにでもできる。生涯かけて、その理想に向かって行動し、挑戦しぬいてこそ、偉大なのである。
 大統領は、何事にも一喜一憂することなく、神経質にならず、“今は自分の力を磨くときである”と決め、自分らしく、わが挑戦の道を歩んだ。
 感情に流されては、道を誤る。縁に紛動されていては、大事をなせるはずがない。偉大なる建設には、時間がかかる。焦ってはならない。粘り強く、確実に、土台をつくらねばならない。

1991年11月29日、ガーナのアミサ大使㊧を団長とする在東京アフリカ外交団から、池田先生に「教育・文化・人道貢献賞」が贈られた(都内で)。これはアフリカ26カ国の総意によるもので、授与式では19カ国の大使らが祝福した。この前日、学会は「衣の権威」の鉄鎖を断ち切り、新たな飛翔を。今年は30年の節目を迎える。授与の2年後、第22回滝山祭に来賓として出席したアミサ大使は“日本とアフリカの友好、相互理解を促進する池田先生の行動は歴史的な偉業”と

 帰国したエンクルマ青年は、国中を回り、大勢と対話するなど、独立に向けて行動を開始する。

  
 彼の持ち歩いた全財産は、洋服2着、靴2足、下着数枚、これだけであった。あとは何もない。
 しかし彼には「行動」という大いなる財産があった。
 動きに動き、語りに語り、何百回もの演説を行ったという。
 行動こそすべてである――これが彼の心情であった。
 私も同じ信念で生きてきた。どういう行動をするのか、目的はどこにあるのか、その内容で人間の価値は決まる。
  
 「民衆のために」「民衆とともに」――。激しい変化、変化の局面にあっても、「民衆の幸福」という一点に価値の基軸を定めていけば、必ず道は開ける。
 みずからの人生も勝利していけるし、指導者としての使命も全うしていくことができる。
 世界の民衆の力を結集しゆく柱となっていこう――こう決意して戦っているのが、創大出身の先輩であり、皆さんであると、私は信じている。

何があっても私は戦う

 独立運動の広がりを恐れる権力者たちによって、エンクルマ青年は投獄された。その獄中闘争は14カ月にわたった。
  
 エンクルマ青年は、獄中にあって、なお戦った。どこにいようと、何があろうと、“闘争の炎”を燃やし続けた。
 彼は語っている。
 “自由は与えられるものではない”――「自由は、はげしい、力強い闘いののちに、はじめてかちとられる」
(同)と。
 ただ待っているだけでは、勝利は得られない。戦わなければならない、と。
 どこにいても戦いである。
 本当に偉い人は、死の瞬間まで戦いぬく。
 “刑務所の外にいる同志にメッセージを送ろう”――。
 彼は鉛筆の切れ端を探し、トイレット・ペーパーを集めた。
 そして、夜、皆が寝静まったころ、かすかな光の中で、黙々と書き続け、獄吏に見つからないように、仲間へ手紙を送った。
 こうして牢獄にいながら、戦いの指揮を執っていったのである。

  
 さらに彼は、なんと獄中から選挙に立候補する。常識では考えられないことであった。多くの反対もあった。しかし彼は決然としていた。
 “じっとしていては何も変わらない。ともかく挑戦だ!”――彼は、勇気ある名乗りをあげた。
 党の宣言も、牢獄から書き送った。民衆はそれを読み、彼を支持した。
 “囚われの身であっても、私は人間である”“私には、戦う権利がある”“何をされようとも、自分は戦う”。これが彼の気概であった。
 場所ではない。
 条件ではない。
 格好ではない。
 心一つで、大いなる戦いはできる。

第22回滝山祭で学生たちと共に創大学生歌を歌う池田先生(1993年7月、創大池田記念講堂で)。記念のスピーチの冒頭、先生は“青春時代に決して悔いを残してはならない。全員が素晴らしい青春、人生を”と期待を寄せた

 さて、選挙の翌朝、獄中の彼に、開票結果が知らされた。見事、圧倒的な大勝利であった。
 選挙に勝ち、晴ればれと出獄する彼を、おびただしく集まった民衆が、歓呼で迎えた。
 刑務所の前を埋め尽くす人、人、人の波――。まさにガーナの夜明けを告げる光景であった。劇的な光景が、目に浮かぶようである。どうせ戦うならば、こうした劇的な勝利を迎えたい。
  
 出獄から6年後、彼のリーダーシップのもと、ガーナは、ついに独立を勝ちとった。この独立を前にした苦しい時代、彼は国民に訴えている。
 「夜明けまえがもっとも暗いように、闘いも、終末に近づいたときに、もっともはげしくなる」
(K・エンクルマ『自由のための自由』野間寛二郎訳、理論社)――と。
 “いかなる戦いも、最後まで走りぬいた人が勝つ。悔いなき戦いを、やりきった人が勝利の夜明けを見ることができる”――これが彼の叫びである。
  
 〈創価教育100周年の2030年へ――。“最後まで走り抜いた人が勝つ”とのエールを胸に、日々、「大いなる理想への挑戦」を重ねていきたい〉
  
  
 ※『池田大作全集』第60巻に収録されているスピーチから抜粋。一部表記を改めた。