私がハンマーで打ち砕いたのは、君たちの羨望だ - 彫刻家グルペッロ

ガブリエル・デ・グルッペロ(Source:de.wikipedia)

<新・人間革命> 第4巻 大光 P323~326

 ライン川沿いに広がるこのデュッセルドルフは、ルールの大工業地帯を控えた、西ドイツ北西部の商取引の中心地である。また、詩人のハイネを生み、音楽家のブラームス、シューマン、メンデルスゾーンを育てた地でもある。スカケやマロニエの並木が続く美しい街並みが、文化の薫りを感じさせた。

 市庁舎の横のマルクト広場には、馬に乗った男性の銅像が立っていた。
 案内役の駐在員が説明してくれた。
 「これが、十八世紀初めに建てられた、ここの領主のヨハン・ウィルヘルムの銅像です。
人びとは親しみを込めて、ヤン・ウェレムと呼んでいます」
 ヨハン・ウィルヘルムは優れた政治を行った領主として知られている。

ヤン・ウェレム騎馬像

 彼は、神聖ローマ帝国の皇帝を選挙する権利を与えられた「選帝侯」となり、オペラハウスを建て、宮廷画家や音楽家を大切にして芸術の振興に寄与したほか、定期的な新聞の発刊や街灯の設置などを行っている。当時、ウィルヘルムによって設けられた街灯の数は、パリよりも多かったともいわれる。
 また、彼は、常に民衆との親交を心がけ、民衆のなかに入り、ともにビールを飲みながら、快活に語り合ったと伝えられている。

 このマルクト広場のウィルヘルムの銅像は、彼が生前に建てさせたものだが、これを制作したのが、当時の有名な彫刻家グルペッロであった。

 駐在員が、銅像を眺めながら言った。
 「実は、この銅像の制作に関する、こんな逸話があるんです。
 銅像が鋳造される時、銅が少し足りなくなってしまった。すると、それを聞いた町の人びとは、急いで、家から銅器などを持って来て差し出した。皆、ヨハン・ウィルヘルムを誇りに思い、慕っていたからなんです。

 やがて、銅像が出来上がると、人びとは朝日に輝く銅像を見て、褒め讃え、大喜びしたそうです。ところが、それが憎らしくて仕方ない人間がいた。この銅像の制作を、引き受けたいと思っていた者たちです。そこで、嫉妬心から、銅像に、ありとあらゆる難癖をつけはじめた。『馬に力がない』『鼻の形が変である』『長靴が悪い』……。
 人びとは、その非難が妥当なものかどうかは、よくわからなかった。しかし、あまり非難が激しいので、銅像を褒めることはやめてしまったのです。

 グルペッロは、銅像の周りに板塀を巡らし、そのなかに弟子たちと入った。作業を始めたらしく、なかから、槌を打つ音や、何かを削るような音が聞こえてきました。そして、二、三週間が過ぎたころ、板塀が取り除かれました。
 すると、盛んに悪口を言っていた者も、もう難癖はつけなかった。人びとは、再び絶讃し、彼らも、皆と一緒になって、褒め始めたのです。

 ウィルヘルムは『どこを直したのか』と、グルペッロに尋ねました。
 グルペッロは答えました。
 『銅像は直すことはできません。もとのままです。これで、悪口を言った者たちの考えは、おわかりいただけると思います』
 こういう話なんです」

 駐在員から、グルペッロの逸話を聞くと、伸一は言った。
 「おもしろい話ですね。周囲の評価には、しばしば、そうしたことがあります。
 創価学会もこれまで、根拠のない、理不尽な非難や中傷に、幾度となくさらされてきました。結局、それらは、学会の前進を恐れ、嫉妬する人たちが、故意に流したものでした。

 しかし、それを一部のマスコミが書き立てると、自分で真実を確かめようとはせずに、皆、同じことを言うようになる。また、学会に接して、すばらしいと思っていた人も、自分の評価を口にしなくなってしまう場合がある。風向き一つで変わってしまう、そんな煙のような批判に一喜一憂していたら、本当の仕事はできません。
 私は、学会の真価は、百年後、二百年後にわかると思っています。すべては、後世の歴史が証明するでしょう

グルッペロは、14歳のとき、アントワープで彫刻家として5年間の見習いを始め、最終的にパリで2年間勉強し、2年間の滞在中にブロンズ鋳造技術を学んでいる。その後、ブリュッセルで自身の工房を開き、スペイン王カール2世(Karl II)、オラニエ公ヴィルヘルム2世(Wilhelm II. von Oranien)、ブランデンブルク辺境伯フリードリヒ3世(Friedrich III)など、さまざまな君主のために作品を制作していた。その名声を買われ、デュッセルドルフへと迎えられたグルペッロは、1703年に仕事を始め、その完成には1711年まで8年間を擁した。この彫像制作には次のような話が伝わっている。


彫像作品がようやく完成して広場に設置されると、宮廷の人々と庶民は、その作品を一目みようと、みなマーケット広場に集まった。作品が展示されたとき、選帝侯は自身の像を熱心に鑑賞し、それを大絶賛した。他の芸術家、金細工職人、石工がこれを聞いたとき、彼らは自分たちはもうこれ以上、宮廷から注文を受け取ることがないのではないかと心配になった。嫉妬と妬みから、彼らはグルッペロの芸術作品を酷評した。どこか実際と違うところを見つけ、わずかな違和感も見逃さず、彼らは常に批判する箇所を見つけた。


 こういった批判はすぐに人々に広がり、町中に大きな失望が広がった。もちろん、これは選帝侯の耳にも届いた。選帝侯は直ちにグルペッロのもとへ赴き、状況を説明した。

 批判がどこから出たのかを認識したグルッペロは、自身の作品を高い木製の囲い板で囲み、外から全く見えないようにした。それから彼は、目に見えて落胆した様子で、彼の作品に対するすべての批判・苦情を受け入れると発表した。そして、彼は彫像を修正するべく作業に入った。グルッペロは、多くの修正を行うのには時間がかかるので、少しの間忍耐強く待ってくれるよう理解を求めた。


 その後の数週間、囲い板の後ろで絶え間ないハンマーの音が聞こえはじめた。人々は作業の様子を見ようと囲い板の隙間から覗いたりしてみたが、結局、何も見えなかった。時折、作業のためと思われる埃があたりに立ち込めていただけだった。

 
 数週間後、デュッセルドルフの人々が待ちに待った「新しい」像が公開された。それを見た人は皆、その作品を賞賛した。最も厳しい批評家でさえ、今回はグルペッロの仕事に対する賞賛を惜しまなかった。

グルッペロは彼の賞賛を冷静に聞き終えると、ようやく口を開いた。「諸君、作品をよく見てみたまえ。作品は以前のものと何一つ変わっていない。考えればわかるが、鋳鉄製の作品をハンマーで修正することなど不可能だ。私がハンマーで打ち砕いたのは、君たちの羨望だ。」

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