〈古川智映子の負けない人生〉第1回 私の生きていくテーマ

 手元に一冊の本がある。本の題名は『幸福』、作家・宇野千代が女流文学賞を受賞した表題作を含む短編集である。
 
 随分と前のこと、私は「大白蓮華」の依頼で、この作品の書評を書いた。本には七つの短編が収録してあって、「幸福」はその冒頭にあげられている作品である。
 
 主人公の名前は一枝、姓は書かれていない。筆者は一枝の幸福を、いや不幸を、さらさらとした文章で綴っている。
 
 一枝は、夫が愛人と暮らすために家を出て行ったことを不幸と思わないようにした。人が不幸だと思うようなことでも、人から見たらおかしいと思われるようなことでも、不幸だとは思わないようにして生きている。自ら幸福のかけらを拾い集め、身の回りにきらきらさせながら暮らしている。
 
 そしてこの作品の極めつけは、「愉しい。それが一枝の生きて行くテーマである」という一文である。
 
 人生半ばにして、私も一枝と同じ目に遭わねばならなかった。大学で教えていた夫が女子学生と恋愛関係になり、家を出て行った。でも私は一枝のように不幸と思わないようにはできずに、苦しみ抜いた。夫の薄給時代を共働きで支え、助教授(准教授)になり、有名設計家による家を建てることもできた。商店以外のサラリーマンなど町内では誰ひとり車を持っていない時代に、日産のブルーバードを買うこともできた。努力し、願いのほとんどが叶ったのに、そして近隣では仲睦まじい夫婦と言われていたのに、どうしてこんなことになってしまったのであろう。
 
 いくら考えても結論は出ず、昼も雨戸を閉めたまま、食事もろくにせずに、家の中で息をひそめていた。
 
 その時からもう60年近くが経過している。しかし当時の苦しみは、今も鮮明に記憶に残っている。
 
 「愉しい。それが一枝の生きて行くテーマである」という文章を置き換え、「幸福になりたい。それが私の生きていくテーマである」というのが、当時の私の心境であった。この苦しみから早く脱したいと願った。

 ふるかわ・ちえこ 青森県生まれ。高校教諭を経て、執筆活動に入る。著書にNHK連続テレビ小説「あさが来た」の原案本『小説 土佐堀川』のほか、『きっと幸せの朝がくる 幸福とは負けないこと』など。日本文芸家協会会員。