若者たちの心に真っすぐに応える

全世界の青年部にとって“師弟の魂”ともいえる長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」。発表された1981年(昭和56年)12月10日の40日前、実は、大分でもう一つの感動的なドラマが生まれていた――。
万感の期待溢れる直筆原稿
同年10月31日、大分市のある私立高校の学園祭で、社会に影響力を持つ著名人からメッセージを寄せてもらう企画展示が行われた。
生徒たちが依頼した著名人のリストには、池田先生の名前が。“よくぞ池田先生を選んでくれた!”。同校に勤めていた教育部の小手川正二さん(67)=副圏長=と、水上陽一さん(68)=副支部長=は、うれしくて仕方なかった。
79年(同54年)には、読売新聞に“最も尊敬する日本人”の意識調査が掲載。池田先生の名前は、第6位(現存する民間人では第1位)に挙がっていた。
さらにうれしかったのは、池田先生から直筆原稿が届けられたことだった。そこには4点にわたって、未来を生きる若人への期待がつづられていた。
「戦争ほど、悲惨にして、残虐なものはない……一人ひとりが、絶対に平和を守りぬく、心の要塞を築いていただきたい」
「若き時代に、でき得る限り、良書を読んでいくべきだ……」
「青春時代に基本である勉学に励んでいかない人は……生涯にわたって、悔いを残してしまうものである」
「(長い人生にあっては)嫌な時代を生きねばならないことがあるものだ。その時に、その人の真価がわかる……堂々と、批判の嵐を乗りきっていける、自分自身を、常に作り、磨きゆく努力を忘れないでほしい」

若き生命を信じ尽くし抜く
当時は、まだ第1次宗門事件の余燼がくすぶっていた。池田先生は、学会と同志を守るため東奔西走する激務の日々。その中での執筆である。
推敲の跡がにじむ2枚の原稿用紙には、次代を担う若人の大成を願う心情があふれていた。その思いは、多くの生徒の心を揺さぶった。
「他のどの人の言葉より、命に響いた」「何があってもビクともしない自分を作りたい」「古今東西の良書を読みたい」などの声が続々と……。
喜び弾ける生徒たちの姿を見て感動した小手川さんは、こう述懐する。
「会員かどうかという次元を超えて、“未来の宝”たちに真剣に向き合う先生のスケールの大きさに感動しました。私自身、先生直結の教育者に成長しようと決意できたんです」
同年12月、池田先生の大分訪問が実現。そして、電撃的な長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」の発表――生涯忘れられない年となった。
あれから40星霜。小手川さんには、くも膜下出血で生死の境をさまようなど、幾多の試練があった。しかし、全て乗り越えて、今も母校の教壇に立つ。
「あの時、先生に教わった、若き生命を信じ、尽くし抜く教育者の使命を、命ある限り全うし続けます」

